主客一如

家の玄関前にこの石碑?が立っています!
今まであまり意識せずにいたのですが…先日ココアを散歩に連れていこうと表に出るとたまたま外を歩いていた方が足を止めて「いつも気になっていたのですが…この石碑はなんて書いてあるんですか?」
と言われました。
実は以前にも同じことを尋ねられたことがありました。
  一瞬…なんて書いてあるの?と自分でも自問自答…。
063
後でお袋に聞くと「主客一如」だと教わりました~^^;
ネットで色々と調べたのですが…
「主客」とは主語のことで、「一如」とは唯一という意味で、つまり主客一如とは、肝心なものはただ一つという事なのだそうです。他に悩む必要はなく、一つの真理の理解に努めたら良い。
ここが大切だとしっかりと感じ取っていく事が主客一如につながっていくのではないでしょうか?

                                  
なんか難しいですよね…。
仏教でも「主客一如」という言葉がある。
何かを知ろうとするとき、人は客体に意識を向ける。そして、観察したりする。
 本当にそれが何かを知るということは、それに関わるということでしかない。物事を理解するということは、物事に向けて自らが主体的に関わるということでしかない。

もっと難しくなって…
 また、ソクラテスに話を戻そう。ソクラテスは頭で考える知を否定したと思う。ソクラテスが説いた「徳」にしても、ただ理屈で理解するのではなく、それを行動として実践する時に意味を為す。だから、何かの真理を把握するということは、自らがその真理の方へと歩みだし、その真理と主体的に関わるということでしかない。
 そのとき、主体である自己は観察や把握の対象である客体と一つとなる。主客一如となる。
 キェルケゴールは『哲学的断片』の中で、ヘーゲル哲学を批判している。ヘーゲルは体系を打ち立てたが、その体系の中には、結局、人間が納まる場が存在しないとキェルケゴールは指摘している。
 真理がどこにあるのかではなく、真理はいつも人間と共にある。論理的な体系の中に真理があるのでもない。なぜなら、体系を考察しているのは人間であるから、もし体系の内側に真理が存在するとすれば、真理は体系よりも低次のものとなるし、その体系を把握している人間の理性よりも真理はなお低次のものということになる。それでは真理の意味がない。

こうなると哲学の世界になって何が何だか分かりません(-“”-;)
玄関にあるということで
 【お見えいただいたお客様お一人お一人に感謝…心をこめてお迎えします!】
 と勝手に解釈しています^^♪